阪神大震災から30年を経て




オーナーたつパールです。
なつパールの夫です。

久々にブログ書きますね。


毎年迎える1.17ですが、

阪神大震災から30年ということで、

自然といつもより思いが募るところもあり、
ブログを書いています。


僕は現在40歳で、
震災当時は10歳、小学4年生でした。


当時住んでいた場所は、西宮市の北部(六甲山よりも北側)で
なので、被災したわけではないですし、亡くなった知人もおりません。

ですが、30年前という日、そしてその瞬間を、ありありと覚えています。


人生において、その瞬間を体験しなおせるほどに鮮明な記憶。
そんな記憶は、数えるほどしかないような気がします。

せっかくの節目として、当時の体験を少し紹介させてもらえたらと思います。


1995年、震災の前日の1/16は祝日で、
しかもその日が母の誕生日だったりして、
翌日の3連休明けの登校を思うと、
ちょっと気が重くなって夜を迎えた記憶があります。


震災時、5:46。
その瞬間はもちろん寝てました。
母と妹と3人で寝室にて。(当時、父は単身赴任で不在でした。)


震災の、その最初の記憶は、
ものすごい轟音が遠くで鳴っているのに気づいたその瞬間。

「なに!?なんで!?」という驚きで、ガバっと飛び起きました。


もしかしたら微細にすでに揺れていたかもしれないですが、
記憶に残っているのはとにかく、
その恐ろしい音。


「とんでもない数の暴走族の爆音!?
と思いましたが、すぐに、

「なんか違う、いや、全然ちがう!!!」


低くておどろおどろしい音が、遠くで鳴っている。

こちらでの現時点での音量はそこまでですが、
とてつもない音が、鳴っているその現場では響いているのであろうこと、
そして、

音の発生している場所がどんどん近づいてきてるのではなく、
明らかに

「こっちにまっすぐ向かってきている!」


と、思ったのもの束の間…。
この間、起きてから本当に数秒だったと思います。


その轟音を鳴らす何かが、
自分のいるマンションに到達するという瞬間がはっきりわかりました。


同時に、ベッドではなく、部屋全体を突き上げる縦方向の衝撃!

揺れというより、

ドン!

っと下の階からでかい怪獣に蹴り上げられるような、
振り落とされるような大きな衝撃。

子供ながら、すぐに

「これは大地震だ!」


と直感し、母の

「布団に潜って!」


という声が先か、恐怖から先に潜りこんでいたかわかりませんが、

大きな音を伴う縦方向の揺れの後、
続けて横方向に大きく揺さぶられているその振動を、
布団にくるまってただただ恐怖しながら、
全身で受け止めるしかありませんでした。


「ガチャン!ガチャン!ガチャン!」


寝室を出てすぐには、食器棚があり、

その扉が開いて、食器が床に落ちて割れている音が響きます。
ただ、その音は一度ではなく、
揺れが続く間もずっと絶えず落ちては割れ続けているのが、
ただ事ではない感覚を煽ります。

何分にも感じられる長い時間、

実際にはほんの十数秒だったそうですが、
布団の中で、


「食器だけで済んでるのか?」
「棚は?冷蔵庫は?そして家は?」


強烈な不安は、今も思い出すだけで手に汗を握ってしまいます。


幸い、家の中の被害は、食器が割れた程度でしたが、
母が食器を片付けてくれている間、ベッドからは出られず、
外の状況も全くわからない時間が続きました。


しばらくしてベランダから外の様子を見たり、近隣の方と話をしたり。


田舎の小さな住宅地である近所周辺では、
瓦が落ちている家屋は見られましたが、
町全体としてはほとんど被害はなさそう、という状況でした。


ただ、自分のマンションに限っては、
駐車場にある給水タンクの壁面が割れ、
水がすごい勢いで漏れている状況でした。

(近隣の方のアドバイスですぐに風呂に水を溜めましたが、その後、2週間は断水が続いたと記憶してます。)


とは言え、目に見える被害はその程度。

しばらくして電気が復旧しましたが、
最初のうちは、あまり情報が出てこないというか、
大きな地震があった、
近畿一円でかなり揺れた、

といったことは報じられているけど、

内容があまりない、というかそこまで大ごとに感じなかったです。


なので、不謹慎ですが小学生ということもあって、
「学校が休みになるだろうな、4連休やな、これはちょっとラッキー」
程度に感じてました。


しかしながら、しばらくして、神戸の街、
長田区周辺が、方々で煙が立ち、火が燃え盛り、
建物というか街がくずれきっていて、道を車が走れるわけもない状況だったり、


阪神高速の倒れている姿、
崩落している高速道路のその瀬戸際でバスがギリギリ踏みとどまっている姿、
そして、倒れている家屋にたくさんの人が埋まってしまっているだろうというレポーターの声、
とにかくヘリコプターからの映像がずっと流れているばかり。


子供が見ても、
これは大変なことになっている
大人がなんとかしようとしても、なにもできないんだ


という絶望的な状況が映し出されていました。


被害がすさまじい状況であることと同時に、
通常の消防救急では全く太刀打ちできないことをまざまざと見せつけられるような、

どうしようもない無力感を子供ながらに感じました。


被害などほどんどなかった僕の住んでいる校区は、

1週間もしないうちに通学できるようになった、
次の月曜には通学してた、と記憶しています。

もちろんクラスのみんなは怪我した人もおらず、みんな無事、みんな元気。

久しぶりに会えたテンションの上がりっぷりから、
地震に対して、ちょっとおどけて冗談を言ったりする姿もあったり。

報道の様子、復旧の被害の全貌


そこから給食が数ヶ月は「簡易給食」という形で、子供ウケが良いメニュー(パンケーキとか、ゼリーとか)が続いて、不謹慎ながら喜んでいたのを思い出します。


また、被害の大きかった地域から、
一時的に親戚の家に避難してきて、同じクラスに編入された同級生もいました。

その同級生が、ヴェルディ川崎の(当時Jリーグめちゃ人気)ジャージを着て登校していたのがかっこよくて、人気者になっていました。
今更ながら思い出すのは、
「毎日同じそのジャージで通っていたなあ」ということ。
なんだか、
自分自身の子供としての無心さに救われるような、
やるせなくなるような、なんだか切ない気分になります。

元気かなあ、はっとりくん。


他に思い出す、直接の震災関連の記憶は、
先に書いた断水のおかげで、風呂とトイレが大変になったことです。
(料理は一体どうしてたんだろう?当時の父母と同じ年齢になった今、またちょっと話を聞いてみたくなります。)

お風呂に入れないので、2日に一度、友人宅にお邪魔したり、
有馬温泉の日帰り温泉(金泉銀泉)まで通ってたのは、子供心にはちょっとワクワク感がある体験でしかなかったですが、今思うと、めっちゃ混んでて、めっちゃ殺伐としてたような記憶が少し残ってます。

トイレ用の水を確保するために、

釣り用のバケツを、マンションの前の川に吊るして汲んで、お風呂に溜めては、使っていました。


被災したエリアではないので、
震災時の話は子供目線で、非常に呑気なエピソードが多いですね。

何を長々と語っているのかちょっと自問してしまいますが、
そういった状況の裏で、当時の大人たちは、
やはり相当大変な思いをしていた方が多いと感じます。


当時、単身赴任で大阪にいた父ですが、

なんとか電話がつながって、家族の安否を確認したのち、
西宮の南側に住んでいる友人家族の安否を確認するために、歩いて向かったと聞いてます。

(当時、交通は完全に止まっていたので、神戸~大阪間を歩いて移動した方の話は多々聞いてます)


これは、高校の頃の先生の話です。
神戸の海側にあった高校で、しばらく授業もなかったようです。
周辺の被災者が体育館に身を寄せる中、生活する物資もままならないだけでなく、

怪我や寒さで亡くなる方も連日絶えない、復旧の目処も全然立たない、という絶望感のある日々。
被災者の身の回りの世話などももちろんたくさんあったでしょうが、

印象的だったのが、
水も復旧してないなかで、溢れかえってしまうトイレ。
学校の先生が手作業で掃除(というか汚物の移動)をするために、
毎日通勤していた(寝泊まりしていた?)という話を聞き、
被災して生活がままならなくなることの壮絶さ、
そしてそれを支える方々の凄まじいまでの尽力に、圧倒されました。



僕より5歳以上年上の世代、45歳以上くらいで、
直接被災したであろう人たちは、震災の話をあまりしない、
というか話ができないという雰囲気を持っている方を割合多く感じます。

友人を亡くしたり、ご家族を亡くしたり、
生活そのものが大きく変わってしまって戻れない、取り返せない…


準備どころか覚悟するだけの兆候もなく、
一瞬で世界が大きく変わり、崩れてしまうことの非情さ。


そんな大きな出来事を乗り越えるという感覚は、

震災前の日常を、関わりを、思い出を捨てることになってしまうことになるのでは
自分が生き残ってしまったという経験談を目にするにつけて、心が痛みます。




何かの巡り合わせで、
14
年前に、思いもよらず神戸でカフェを開き、


自分も子供を2人育てるようになって、やっと初めて、
神戸の街に対して、神戸市民として向き合えるようになってきて、
だんだん神戸を好きになってきた、そんなこの数年。

神戸が嫌いだったというわけではないです!
カフェに必死で、人間らしい生活をしてなかったという事情がありますf^^



震災から30年という節目で、
当時の父母と同じ年齢になって、
思い起こすことも多く、久しぶりにブログという形で書かせてもらいました。


お客様もスタッフのケシメイツたちも、
震災を全く経験していない世代も多くなってきましたが、
何かしら気になるきっかけになってくれたらいいな。


過去の経験を知り、
未来に起こりうる災害に備えるのはもちろん大事。


でも、それ以上に、
今、平和に過ごせているこの時間がどれだけ恵まれているか、
なんとなくの1日、いいことがあった日も、ちょっと悪い出来事があった日も、
また明日があると思えるということが、幸福であること、ありがたいこと。


もっとたくさんの人がもっと日常に、今という日々や瞬間に、
何気ないちょっとした挨拶や、たまたま見かけた出来事であっても、
何か意味や価値をもっと見出すことができるといいのにな…。
と、それは、こういった節目で思いを巡らす際だけでなく、
カフェを営みながら、日々を過ごしながらもよく考えることです。

 

※「幸福のハードルを下げる」という意味ではありません。

でも「感謝のハードルは下げてもいいかも。いや、感謝センサーを敏感にすると言った方がいいのかな」と書きながら思ってます。


さて、最近僕がまた一歩、神戸を好きになった要素の一つに、掬星台からの眺めがあります。
3
ヶ月前からジョギングを始め、
普段は海沿いを走っていたのですが(これも十分めちゃ気持ちいい)、

1ヶ月ほど前に、その日のノリで山側に向かっちゃえ、
と摩耶山の掬星台まで登りました。

(水も防寒着もなく向かったのは大失敗でしたが…)




神戸に住んで14年になりますが、初めての景色。


神戸だけでなく、大阪湾までが一望できるだけでなく、
街が呼吸してるような、人の営みが伝わってくるような、

遠くから眺めさせてもらってるけど、

自分も神戸の街で日々営んでいるんだなあ、
ありがたいなあ、

と感じられる景色で、行くたびに心が文字通り洗われるような経験になります。

今頃やっと知ったくせに、なんか偉そうに語ってます。
でも、めっちゃおすすめです。





雪に書いてあるサインもなかなか乙ですね。



ここでなつパールに握ってもらったおにぎりを食べる。

これがちょっとした幸せなのです。


そんなおにぎりを、
震災の追悼と、
平和で平穏な未来への願い、
そして今という時間への感謝を込めて、

昨日(メイツやなつパールが仕事中にも関わらず)、
ちゃんと飲み物や防寒着を用意して、
1/16
にも掬星台に足を運び、
「献おにぎり」をさせてもらいました。




おにぎり(食べさし)と神戸!
2025年1月16日 掬星台にてたつパール